独立して居酒屋を経営して活躍されているかたに、独立までの道のりや、今後の目標などをインタビューしました。

さまざまなバイトやシゴトをしながら、必死で腕を磨いた

料理人の世界に入ったのは、18歳のとき。地元である都城にお店を構えたいという夢があり、まずは東京で一から修業しようと思ったんです。初めはバイトスタッフとして都内の焼肉屋や居酒屋で接客や料理の勉強をスタート。そのあと、数々の和食店や日本料理店で見習いから修業し、料理人のいろはを学びました。都内は店の入れ替わりが激しいため、勤め先が閉店に追い込まれることもありました。そんなときは生活のために飲食店の日雇いバイトを複数かけもち、なんとかしのいだものです。のちに職場の先輩に紹介された福井の郷土料理を提供する和食料亭で、料理長としてはたらきました。和食は、春夏秋冬を表現することが大事。だから季節の食材の調理方法と合わせて経営について3年ぐらい繰り返して実績を積み、都城に帰って念願の店を持とう、と考えていました。

厳しい立地であえてチャレンジ

ところが、東京ではたらいていた父が、同じタイミングで東京の北区上中里で居酒屋をオープンしたいと言い始めました。もともと父は共同経営でスナックも営んでいたのですが、飲食や居酒屋料理の経験がなかったため全力で反対。それにもかかわらず「やれる!」の一点張り。本当に店を開いてしまいました。しばらくすると、懸念した通り、店が忙しくなるたびに「刺し盛りを用意して」と連絡が入る(笑)。深夜2時まではたらいたその足で築地に向かい食材を仕入れ、そこから車で約30~40ほど離れた上中里で仕込みをする日々。職場から築地まで近距離とはいえ、さすがに寝る時間がない。それで、父の店を立て直す形で、店名を変えて独立することを考え始めました。でも当時、2009年はリーマンショックで景気が悪いし、そもそも上中里は東京23区のJR駅の中で利用客数が最下位を争うぐらい。どう考えても条件が悪かったのですが、これだけの悪条件の中で結果を残せたら、どこに行っても通用するんじゃないか? 勝負してみよう!と決意し、今までの経験を活かし、鮮魚や旬菜、宮崎郷土料理を提供する『炭火宮崎地鶏 孝基亭』をオープンしました。

苦しくても夢のためなら頑張れる

独立後、しばらくは自分の給料が出ないほど苦労しました。それどころか収入が低いときに、料理長としてバリバリ稼いでいたころの収入額に対して税額を払わないといけなくて、本当に苦しかったです。給料が出ない、お店を軌道に乗せないといけない、貯金がどんどん減っていく……。そんな負のスパイルにもめげずなんとか頑張って、少し光が差し始めた2011年、東日本大震災が起きました。常連のかたの多くが震災復興に携わるお客さまだったため、一気に客足が遠のいてしまった。でも鉄道会社やケーブルテレビなどの情報誌にお店のことを掲載してもらったり、宮崎出身の週刊誌の記者が「前から気になっていた」と言って取材してくれたりと、すべてではありませんが、そういったサポートによる効果や、ほかの常連のお客さまの支えに元気をもらったのは確か。自分も負けじと続ける中、徐々に口コミで広がり、2016年で7年目を迎えました。直近の目標は『孝基亭』移転計画です。実は多くの人が遠くからわざわざ電車に乗って来てくださっているんですよ。だからもう少しアクセスが良いところで再出発したい。そして宮崎料理をもっと多くの人に食べてもらいたいと思っています。宮崎でお店を出す夢へはまだ道半ばだけど、これからも「精神一到」「日々努力」の心で突き進みます!!